父親が家族に話す若い頃の話の大半は、海軍兵学校時代の話だった。入学して初めて先輩方と顔を合わせたとき、自分の名前を思い切り大きな声で叫ぶ。どんなに大きな声でも「声が小さい」と言われて最初に殴られる。その最初のエピソードに象徴されるあまりに辛く厳しい生活に、「自由になれるのはトイレの中だけだ…」と秘かに涙したみたいな話も聞いた。
父親の号泣するところを1回だけ見たことがあった。僕が小学生だった頃(だと思う)ふと家で流れていた太平洋戦争の番組。特攻隊の話で回天の話になったとき、急に泣き崩れた。「ワタシの青春はこれだったんだ」と叫んで…。あんな姿を見たことは後にも先にもあのときしかなかった。
しかし、そういう苦労話を話しながらも、明らかに父親は海軍士官(卵だったが)であることを誇りに思っていた。常にことあるごとに、「海軍では…」とか「仕事は戦いだ」とかいうのが口癖だった。
前編で書いたように、父親は社長にはなったが、商才はまったくある感じではなく、個人の信用と能力だけで生涯仕事をして来た人だと思う(ちなみに我が家はまったくお金持ちとかではなく、僕が小4のときまでは6畳4畳半の2Kのアパートに家族4人暮らしだった)。会社は最終的には数人の会社に縮小してほとんどの仕事を1人でやっていた。ドル建てでお金をもらっていたから、プラザ合意以降はかなり苦しい台所事情になったのだ。仕事を家に持ち帰り、ほぼ休みなしに昼間は働いていた。唯一の楽しみは、日曜昼間にどこかにブラブラ歩きに行ったりすることと(小学生時代はよく連れて行ってもらった)、晩酌つきナイター観戦、相撲自宅桟敷だった。「お酒を飲まなかったら聖人君子だな」とよく大笑いしていた(ヨッパラったときに相当危ないことをしてるのは僕と同じ…笑)。そう言えば、酔うとやけに陽気で、各国の広報会社が集まる会議などでは、「お笑いクラブ(英語で何と言うんだろう?)」を結成していたらしい。そういう外国の仕事関係の人としゃべるときの方が饒舌で冗談も言うからビックリしたものだった。90年代に入って仕事をやめるときは、ボーイングシアトル本社で送別パーティーをやってもらった。母と夫妻でファーストクラスを取って招待されるという超ビックリ待遇だったのだが、さすがにそのときは両親は喜んでいたな。人望があったんだと思う。
さて、話を江田島に戻そう。写真で見てください。それはそれは素晴らしい場所だった。
門を入るとまず大講堂。
取りあえず昼メシは海軍カレー。
何か昭和の普通の定食屋っぽくて懐かしい味(笑)。
大講堂の中。大正時代の建造物だけどすごい造り。
赤い絨毯はワタシたちは踏むことはできない。
父親が日々暮らしていたレンガ棟。現在は自衛隊幹部候補生学校だ。こんな綺麗な建物で暮らしていたとは…。
廊下現象。
建物の中に入ると…。
鏡もあった。父親は76期生。
稲田司令を囲んで。
松はやたら真っ直ぐ。
建物内は撮影禁止の教育参考館。
ここに数々の海軍の資料が残されている。
これは2人乗りです。
この写真は?
絵画のよう…。
海側に来てみた。実はこちらが海軍兵学校の正門だそうだ。
卒業式には、ここから学生が出航して行く(現在の自衛隊でも)。我が父もここから入ってここから出て行ったわけだ。
今回案内してくれた市川士官。
このボートはカッター。
古鷹山。父が毎日見ていた眺め。
眺めている余裕があったかどうかはわからないが…。
iPadのレンズに収まらず。
いかがだったろうか。僕は父親の聖地を4時間くらいゆっくり歩きまわって、あまりのその美しさに相当驚いた。稲田司令の話では、大講堂もレンガ棟もほぼ当時のまま残されているという話だった。しばらく歩いているうちに晴れ上がり、山と海を望む風景もそれはそれは美しいものだった。
僕は、歩く場所すべてに若き日の父親が見たものを感じた。ここを訪れた日は術科学校の卒業式前日だった。在校生は講堂の掃除を行なっていた。70年前も当然そういうことが行なわれていただろう。
そして、福田重男→山本造船社長さん→稲田司令という繋がりがあったからこそ起きた感動的な出来事があった。稲田さんが「布川さんという兵学校出身の方のご子息が来るから調べておいて欲しい」と先ほどの写真の参考館の館長さんに連絡を入れておいてくれたのだ。
父親は昭和19年(1944年)入校の76期。参考館で相当丁寧な説明を受けた約2時間の最後に、その父が写っている写真を見せてもらったのだ。稲田司令の「その写真もらえないの?」の一言で、
何とコピーして頂くこととなった!
実は、先ほど参考館の前で僕が持っていた写真がこれだったのだ。最後列、壁が黒くなっているところの右から2番めが16歳の父だ。
当時の話を色々聞くと、父親が入学した当時の校長先生は歴史に残る海軍軍人の井上成美さんだった。彼は、当時アンチ英語教育に傾いていた国策の中で英語教育を重要視した人だったそうだ。敵を知るには当たり前のことだろう。そういったことが、父親の英語道にも繋がったのかもしれない、みたいな話にもなった。父のマインドのすべてを形成したのはこの地だったと僕は思っている。それは、後に仕事をするときにも常に支えとしてあったはずだ。
江田島のあまりに美しい風景と建物を歩きながら、僕自身も父から連なる脈々としたものをひしひしと感じたのだった。僕はもちろん海軍修行のような厳しい体験をしたことはない。でも父を好きだった、尊敬していた点、そして自分もそうありたいと思っていることは…
ミッションを全うしたい、という考えが常にあることだ。
軍隊においてミッションとは、まずは上官のルールを絶対守ることだろう。それを徹底することによって強靭な精神力が鍛えられる。軍人にならなかった父が民間仕事を始めてからは、自分のミッションを全うするということに人生が変わった。そのマインドは息子である僕はいつも感じていた。
僕もジャズ渡世人として、日々の小さいミッションを常に全うしようという気持ちだけは持っている。だからゴルゴ13大好きだしね(爆)。ちなみに、父が亡くなって半年後に僕の息子は生まれた。そのときに作ったアルバムが、父と息子に捧げた「ディパーチャー」だった。僕は父が僕にしてくれたことと同じようなことを自分の息子にしたいと思ってずっと彼と接して来た。
斯くして…
この初めての江田島訪問の日は、僕にとってここ数年で最も感動的な日となった。
17年前1998年3月、父の出棺の挨拶の最後に、彼の好きだったサントリーレッドをラッパ飲みして「いってらっしゃい」と叫んで送った。
そして2015年3月、僕は亡くなった父親と17年ぶりに再会したのだった。
稲田司令、山本造船社長、そしてそんな縁を作ってくれた盟友福田重男に心から感謝いたします。
2015-03-22 07:41
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