晩秋の高尾山 [個人的案件]
GW還暦前竹馬の友ガキの集い [個人的案件]
17年ぶりの父親(後編) [個人的案件]
父親が家族に話す若い頃の話の大半は、海軍兵学校時代の話だった。入学して初めて先輩方と顔を合わせたとき、自分の名前を思い切り大きな声で叫ぶ。どんなに大きな声でも「声が小さい」と言われて最初に殴られる。その最初のエピソードに象徴されるあまりに辛く厳しい生活に、「自由になれるのはトイレの中だけだ…」と秘かに涙したみたいな話も聞いた。
父親の号泣するところを1回だけ見たことがあった。僕が小学生だった頃(だと思う)ふと家で流れていた太平洋戦争の番組。特攻隊の話で回天の話になったとき、急に泣き崩れた。「ワタシの青春はこれだったんだ」と叫んで…。あんな姿を見たことは後にも先にもあのときしかなかった。
しかし、そういう苦労話を話しながらも、明らかに父親は海軍士官(卵だったが)であることを誇りに思っていた。常にことあるごとに、「海軍では…」とか「仕事は戦いだ」とかいうのが口癖だった。
前編で書いたように、父親は社長にはなったが、商才はまったくある感じではなく、個人の信用と能力だけで生涯仕事をして来た人だと思う(ちなみに我が家はまったくお金持ちとかではなく、僕が小4のときまでは6畳4畳半の2Kのアパートに家族4人暮らしだった)。会社は最終的には数人の会社に縮小してほとんどの仕事を1人でやっていた。ドル建てでお金をもらっていたから、プラザ合意以降はかなり苦しい台所事情になったのだ。仕事を家に持ち帰り、ほぼ休みなしに昼間は働いていた。唯一の楽しみは、日曜昼間にどこかにブラブラ歩きに行ったりすることと(小学生時代はよく連れて行ってもらった)、晩酌つきナイター観戦、相撲自宅桟敷だった。「お酒を飲まなかったら聖人君子だな」とよく大笑いしていた(ヨッパラったときに相当危ないことをしてるのは僕と同じ…笑)。そう言えば、酔うとやけに陽気で、各国の広報会社が集まる会議などでは、「お笑いクラブ(英語で何と言うんだろう?)」を結成していたらしい。そういう外国の仕事関係の人としゃべるときの方が饒舌で冗談も言うからビックリしたものだった。90年代に入って仕事をやめるときは、ボーイングシアトル本社で送別パーティーをやってもらった。母と夫妻でファーストクラスを取って招待されるという超ビックリ待遇だったのだが、さすがにそのときは両親は喜んでいたな。人望があったんだと思う。
さて、話を江田島に戻そう。写真で見てください。それはそれは素晴らしい場所だった。
門を入るとまず大講堂。
取りあえず昼メシは海軍カレー。
何か昭和の普通の定食屋っぽくて懐かしい味(笑)。
大講堂の中。大正時代の建造物だけどすごい造り。
17年ぶりの父親(前編) [個人的案件]
父親が大好きだった。
親子関係は色々あるけれど、僕は素直に父親を尊敬している人間だ。色々な意味で影響を受け、そのマインドを受け継いでいると自分では思っている。
父は、外資系の会社で複数の海外会社の広報の仕事をしていた。メインはボーイングやスイス航空。米国人の社長の下で働き、その社長の死後は社長を引き継いだ。広報の仕事だから、日々日本のニュースを翻訳して本社に送ったり、その逆も多々あったようだ。御巣鷹山事故を始めとする飛行機事故(子供の頃、父が飛行機事故があるたびに急に出勤したりメチャ忙しくなっていたのを覚えている)などでは針のむしろの立場でもあったんだと思う。
そんなことを書くとバリバリのビジネスマンをイメージするかもしれないけど、僕の見る父は全く違った。彼は求道者だった。何の道かと言うと、英語である。仕事の必然で英語はペラペラだったが、彼はいつも朝6時前には起きてNHKの基礎英語、続基礎英語、英語会話っていう3種の神器を毎日聞いていた。ルティーンになってたんだと思う。僕が毎朝6時にスローテンポでメジャースケール練習するようなもんですよ(笑)。社長になっても金勘定的なことはまったく興味なくて(カブ栽培にハマる僕とは大違い…笑)、大学を出て確定申告し始めた僕が税金指南したくらいなんだから。税理士に相談すりゃーいいのに…。日々読む本は仏教の宗教書とかだった。合気道は3段。頼まれて大先生の合気道本を英訳した。
大学卒業間近の頃、僕がプロギタリストになりたいと言ったとき、母はすごく寂しそうで、それをうまく説得するフレーズを僕は懸命に考えたが、父は何も言わなかった。「好きなことをやればいい」という風に言ったと思う。
僕は子供の頃父にホントによく遊んでもらった。当時の3種の神器は何かな?野球、相撲、ボクシングってとこかな(プロレスが好きになってバカにされるのがイヤで黙ってた…笑)。音楽にはまったく造詣はないけど、やけにモーツアルトは好きだった。
そんな父の精神的な故郷であり、聖地である場所を昨日は訪れたのだった。江田島海軍兵学校である。
今回のツアーは12本連続ライブの後、福田重男氏の友人、呉で造船会社社長を営む山本さんのお世話になることになっていた。呉駅前にあるヤマトミュージアムの1/10大和を造った人だそうだ。こんな人が友人にいる僕の盟友はホントにすごい(笑)。仕事をするっていう話もあったのだが、結局オフ2日間となった。僕は、千載一遇のチャンス、と思って、海軍兵学校のある江田島に行きたいと提案したのだった。そうしたら、すごいことになった。山本さんの友人で元自衛隊上級士官で何隻もの艦長を勤めた稲田司令が江田島を案内してくれるというのだ。元々はこの方の退官記念パーティーで福田氏が演奏したのがこの繋がりのきっかけらしい。
初の呉、駅前ホテルからの眺め。
初日は仕事もしないのに、あまりに贅沢な飲み会。
ミルガイの肝って初めて食べた。旨し!
2時間ミュージアムを堪能して、稲田司令と落ち合った。ほとんどもう最高な御方。若い頃は南極に2回も行って犬にも遭遇したらしい(笑)。まったく気取りなくよくしゃべる。面白いのは、僕たちより10歳以上歳上で、ものすごい偉い方なのに、福田氏はほとんどタメ口。「オレさー、~なんだよねえ」みたいな感じ(笑)。さすが巨匠だ…。
最後に記念撮影。
稲田司令の車に乗り込むと、何と福田氏のカバンがない。ついに福田氏もツアーでヌノリ菌が感染したか。一瞬前のことを瞬時に忘却する強力なウィルスだ(笑)。さっき映画を見ていたシアターに忘れていた。
さて、江田島は呉から車で行くとかなり離れている。ぐるりと回って行く感じで、40分以上は掛かると思う。
いよいよ江田島到着。天気は悪いが、何かひなびた素敵な眺め。
牡蠣の聖地でもある。
そして、ついに海上自衛隊第一術科学校、幹部候補生学校(2つの学校が敷地内にある)に到着した。海軍兵学校の跡地にできたものだ。いよいよ、父の若き時代の最もコアな部分を探訪することとなった。
(後編に続く)
竹馬の友、元気一杯! [個人的案件]
金ちゃんさらば… [個人的案件]
昨日「金ちゃん」が亡くなった。息子が6年間育てた金魚だ。
6年前の地元の祭りの金魚すくい。3匹の金魚がウチに来た。飼いたいという息子に僕は反対した。小学校低学年のときに、ザリガニを取って来てまったく世話せず、僕がたまにエサをやりながら「お前が面倒みるって話だったろ。何でお父さんがエサやってるんだ!こっちはいないときも多いんだからとにかく毎日様子見ろ!」と言っていた。ある日見てみるとひっくり返ってた…。
珍しくかなり僕は叱った。「お前は2度と生き物を飼うな」と。あまり叱っても泣かなかった息子がそのときはかなり泣いた。
小学校5年生になった彼は「金魚は絶対自分で世話するから」と強く言った。そこまで言うのならということで、ちゃんとした水槽を買って金魚を育て始めた。3匹は金、銀、銅と名付けた。色々研究したようだ。何かあると、熱帯魚に詳しい義弟によく電話して聞いていた。ドジョウや貝とかも入れたこともある。
時が経つに連れて、金魚の大きさは 4: 1: 2くらいになった。金魚すくいの頃とほとんど体型が変わらない「銀」が好かれるのは判官贔屓か(ちっちゃくて可愛かった…笑)。エサはなるべく「銀」めがけて入れるのだが、すぐ「銀」は「金」に追い払われる。大きさの差は生存能力の差、小さい順に亡くなって行き「金」が残ったのだった。
彼は6年間完全に独力で金魚を育てた。高校受験の日の朝も水槽を掃除してから出掛けていったのにはビックリした。
空になった水槽を見ると少し寂しいが、息子は大変よくやったと思っている。
合掌…。
2015年2月15日記
代々木ゼミナール [個人的案件]
代々木ゼミナール縮小のニュースは隔世の感を禁じ得ない。
小学生の頃、地元野球チームの試合に代ゼミからそのまま行った。何かイヤだったな…。
高校のときは2つくらいクラスを取ってたけど、ほとんどさぼってた(これは懺悔。さぼってた理由は秘密)。ハイクラス数学テストゼミっていうのがあって、0点を取った。両親に笑って見せたらやたら暗いムードになった。そりゃそーだ。親の立場になるとわかる(笑)。でも自分では、受験勉強のスケジュールはあって、全然やってないところだったからまったく気にしてなかった。0点受けると思った(アホ!)。親はそんなのわかりようもないからね…。
僕は音楽家になって33年だが、卒業して1年くらい経って、仕事がなくなって1年強バイトをした。塾講師(数学)ってやつだ。そこでは相当やる気ない先生だったけど(これも懺悔)、その仕事仲間で仲良くなった奴がいた(国語講師)。彼は同年代でロックとギターが大好きだった。当時大学院修士で作家志望、ジャズミュージシャンを生業としたい僕とはやたらウマが合ってよく仕事帰りに飲んだ。音楽や小説はもちろん、たわいもない話でいつも盛り上がった。
彼は作家にはならず、そのすぐ後に予備校講師になった。代ゼミだ。トップとは行かないまでも彼はかなり売れっ子になって日本全国を飛び回っていた。やけに羽振りがよくなって必ずおごってくれるようになった。彼は自分の身入りをギャラと呼んでいたが、人気講師になると売れっ子スタジオミュージシャン以上の稼ぎになっていたようだ(当時の感覚で)。彼は沢山のギターを買っては僕に使ってくれって言ってよく貸してくれた。僕がファーストアルバムを出したときは本当に喜んでくれて、「授業で宣伝してやったぞ!」とか言ってた。僕を応援することが楽しそうに見えた。
90年代後半になって彼は仕事が減って来たようだった。業界の厳しい生存競争の話も聞いた。一方僕はその頃から音楽仕事が軌道に乗った。寂しい話だが、その頃から彼とは疎遠になった。数ヶ月にいっぺんくらい夜中に電話をして来るのが何年か続いた。で、あるときから音信は途絶えた。最後に話したときはかなり酔っていた。
今世紀に入ってからはまったく連絡は途絶えている。少し噂も聞いたが真偽のほどはわからない。何にしても遠い処に行ってしまった。作家やってるのかな……。
あいつにはとても感謝している。
東京工業大学ジャズ研大OB会写真館 [個人的案件]
滝澤さん、どうもありがとうございました [個人的案件]
感動の鉄道の旅「釧路〜根室」 [個人的案件]
皆さん、今晩は。またまた連続アップデイト。極端ですいませんです。
今回は11/24(金)晩秋の根室で書いた日記をアップロードいたしますね。
「根室にて」
今日は生まれて初めて来た東の最果ての地、根室のホテルにいます。
3時半過ぎには日が沈む場所。
昨日の札幌くうでの布川俊樹北海道トリオライブを終えて、明日根室でのマルタさんと森口博子さんのジョイントコンサートを前に今日は移動日でした。札幌から釧路までは特急スーパーおおぞら。根室には特急が行かない(最初時刻表で知ったときには愕然としました…笑)ので釧路で花咲線鈍行に乗り換えます。総行程6時間半の旅です。
でもね、この日が楽しみだったんですよ。僕は子供の頃はとにかく鉄道ファン。鉄ちゃんにも色々あるみたいだけど、僕は時刻表愛読と何系とか色々覚えるのが好きでした。だからかなりの地方行っても駅名知ってたりする。
ところが、特急での移動時は前日の楽しい楽しい最終日打ち上げがたたって約2時間半の爆睡。起きたら一面帯広ウシウシ世界。それもなかなかに楽しかったんだけど…。
クライマックスが待ってました。釧路から根室の鈍行列車2時間。
何と1両編成!もちろんディーゼルです。
まずは山間部に入って行きます。最初は座ってたんだけど、やけに警笛鳴らすので運転席の横に行ってみたんですね。何と、鹿の群れが線路上にいるのを警笛で退かしているわけです!!もうそれからはずっと運転席に張りついちゃった。ほぼ2時間立ってましたね。
かと思うと海が急に視界に開けたり…。感動したのは厚岸湖。快晴の天気、線路と白鳥の湖が織りなすコントラストが溜まりませんでしたね。また根室が近づくに連れ、右側には牧草と崖、海の風景。鹿が草を食んでいる。あれも良かったなあ。以前テレビで見たアイルランドの風景みたいだった。刻々と変化する風景はまるで遊園地のよう。でもリアルなんです!3時半くらいに根室に着いたんですけど、ホントにこの時間の列車にしてよかった。これより後の列車だと暗くなっちゃうからね。
しかし、線路をずっと眺めてると何でこんなにグッと来るんだろう。
僕は鉄道ファンだったけど、子供がアタマの中で色々想像を巡らしているのが好きだった。実際にたくさんの鉄道に乗ったわけではありません。こうやってそれがリアルな体験になるっていうのは相当の感動。いままでの鉄道乗車でベストでした。
よかった。
釧路駅で乗り換え
山岳鉄道のような趣き
たくさんんの鹿の群れが線路上に。写真は撮れず(残念)。
海が眼前に現れた
厚岸の手前
感動の厚岸湖
白鳥の湖
運転席から見ると
よくこんなところに線路敷いたよなあ…。人間の底力を感じます。
あっ とこ
こんにちは。またね!
根室近し!牧草地と海と崖。
3時半の夕日
ここは記念写真でしょう(笑)。
またいつか。今度来たら納沙布岬に行こう。